阿部保夫 略歴

 大正14年(1925)9月15日宮城県石巻市に生まれる

兄の影響からギターと出会い、12才頃から管ノ又信太郎氏に師事する

その入門を願い出た場所が公衆浴場であったという

少年の場所をはばからない行動からギターへの並々ならぬ情熱が窺われる

 昭和17年 第1回リサイタルを開く

戦時下ゆえ軍歌等も取り入れたものであったという

又、同時期石巻交響楽団と称するアマチュア合奏団に所属し

アコーディオンを担当していたという

 昭和20年 戦時中は中国の羅南に主計少尉として入隊

終戦の際、シベリア行きの列車から機転を利かせ別の道を選び復員

その帰りについた地は一面焼野原の広島であったという

 昭和22年 東京へ

それまで勤めていた大蔵事務官として転任

昭和23年に退官しギターに専心する事となる(阿部ギター研究所設立)

この頃、古賀政男氏主宰の古賀ギター歌謡学院にて講師も勤める

後年有形無形の援助を受けることになるが、

まさに東京で最初に阿部保夫を評価した人こそこの人である

 昭和24年 第1回全国ギターコンクール第1位入賞

その出来栄えは審査員であった武井守成氏が涙を流して戦後のギター界の復興を

喜んだと伝えられる

 昭和29年 イタリアへ留学

A・セゴビア、E・プジョール氏に師事

J・ウィリアムズやA・ディアスらの知遇を得る

帰国後全国各地で演奏会及び講習会を開きその奏法を伝える

当時は医師と大学教授以外は外務省で試験に受からなければ出国できない時代であった

この時期からより音楽の深みを増すため、作曲を池ノ内友次郎、

理論を小船幸次郎両氏に師事する傍ら、絵画のレッスンにも通っている

 昭和31年 ギター協奏曲の東洋初演

C・テデスコのニ長調コンチェルトのオーケストラとの本格的競演は大いに賞賛された

 昭和41年 「NHKギター教室」の初代講師となる

当時、同局の大河ドラマの視聴率をしのぐといわれクラシックギターブームに拍車をかける

それは昭和48年まで5期に渡り担当する

これに前後して東芝レコードより9枚のLP録音、全音楽譜出版社より

「阿部ガット」ギターの製作監修等、活躍の幅を広げていく

 昭和44年 日本ギタリスト協会発足

初代委員長として10年余りコンクールを主催する等、ギター界全体の発展に貢献する

以前よりの演奏会や、学校における音楽鑑賞会での多くの一流音楽家との

ジョイントコンサートは多忙でありそれは昭和を超え平成に至っても続くのである

一年のうち、夏の一ヶ月間は仕事をせず別荘で過ごすのが常であった

聞く所によると、ある年の9月の仕事始めの演奏会の折、

右手の爪を丁寧に磨いてステージに立った所、左手の爪がのびて押弦出来ず

あわてて舞台から降りたことを苦笑いしながら話していた

これも、演奏への自信の表れの一つを物語るものであろう

私は父が練習しているのを見たことがない

勿論、得意な曲を選んでいた事もあろうが近作の伊福部作品でもそうであった

晩年は悠々自適の生活を伊豆で送っていたこともあり、

逢う機会も少なくなっていたのが残念であるが

1999年11月頃、電話で編曲について話し合ったのが最後となった

1999年12月26日午後11時51分 心筋梗塞のため永眠、74才

酒を愛し、家族を大切にした人であった

                              阿部 恭士

 

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